(大分県立芸術文化短期大学研究紀要第39巻(平成13年)所収)

米国庇護下の独裁政治と近代化-現代イラン通史の試み、その4-
Dictatorship and Modernization in Iran under USA's Guardianship
                 
                        大分県立芸術文化短期大学
                         富田 健次

     「歴史を通して人民は軽侮されてきた。国王たちや統治者たちは、(その統治の拠り所を民意にではなく)軍事力や抑圧手段に頼ってきた。残念ながらこの150年、この軍事的権力は(さらに)外国の庇護にも頼ることになった。つまり、統治者たちは国内で(国民の利益ではなく)よそ者たちの利益を、力の行使でもって保護したのである。もし人民が、彼ら(統治者)に敬意を表したとすれば、それは恐怖のため、仕方がないため、あるいは損害をうけないがためであった」。--ハータミー大統領の演説(1997年)より1--

1、 米国の進出
シャー( 国王)の復権はイランの政治に大きい変化をもたらすことになった。シャーが支配する体制はイラン内部からの抵抗のみならず、国外から、とくにイランを西欧帝国主義の手先と見なすソ連と急進派のアラブ諸国からの敵意に直面することになった。
 しかし、1963年からパフラヴィー朝末期にかけてのシャー独裁体制は1953年8 月のクーデターの後、直ちに出現したわけではなかった。しばらくのあいだシャーは彼の復帰に協力した人達、即ち軍人や地主、企業家、宗教指導者たち、ならびにテヘランの群衆と同輩関係にあった。これらを指導する立場にあったのは首相に就任したザーヘディ将軍であった。彼の内閣と第18期国民議会は反モサッデグ色を強く見せていたものの、モサッデグ時代に財務大臣を勤めたアリー・アミーニーがこの内閣でも財務大臣として残留していた。懸案の石油問題の残務処理を行ったのはこのアミーニーであった。国民議会選挙でもシャーとつながりを持たない議員たちが多く復帰した。モサッデグの立憲・民族主義を完全に払拭することはできていなかった。
国外からの敵意、厳しい経済状況、弱体な王権と軍部と言った状況を背景に、シャーは米国への依存を強めざるを得なかった。一方、米国は長期的に自らの反共政策と米国権益に沿った形で、イランの王制を保持すべく、イランの石油産業や経済、軍部、社会に深く介入しようとした2
米国はまず、石油産業の国有化問題を自国に有利な形で解決した。米国務長官J.F.ダラスの尽力によって、イランの石油産業を運営するために英国のA.I.O.C.の代わりに国際企業連合( コンソーシャム) をつくる案が提示され、英国、イランともこれを受入れた(イランは1954年11月に調印した)。
このコンソーシャムの比率はブリティッシュ・ペトロリューム( A.I.O.C.の後身)が40%、米国企業の5 社が8 %づつ、シェルが14%、フランス石油公社が6 %となっていた。理論上、このコンソーシャムはナショナル・イラン石油会社の顧客であり、イランの石油産業の所有権を認めていたが、実質的にはコンソーシャムがイラン石油の掘削から販売まで、そのほとんどを管理するものであった。しかし、その結果、イランの石油収入は増大し、1954・5 年が3 400 万ドルであったのが1956・7 年には1 億8 100 万ドル、1962・3 年には4 億3 700 万ドルへと増加した。
米国は次に、イランに対する財政・経済援助を行った。シャーの支配体制がまだ脆弱であった1953年から57年の間は計36.68 億ドルの援助を、それ以降の3 年間は毎年ス均4500万ドルの援助を継続しておこない、1961年には年間10.72 億ドルに達した。イランはNATO( 北大西洋条約機構) 以外で米国の経済援助を受ける主要国であった。この援助と共に、米国から顧問や技術者、民間投資家が大挙してイランに押しかけた。
米国はまた、シャーの軍部と治安機関の強化にも協力した。1957年に米国の中央情報局C.I.A と連邦捜査局F.B.I.はイスラエルの情報機関とともに、イランの秘密警察SAVAK ( 国家治安情報機関) の設立を援助した。悪名高いこのSAVAK はシャーによるイラン統治の「目と耳」の役割と持ち、同時に鉄拳ともなった。これも含めた1953年から63年にかけての米国による軍事援助は5.354 億ドルとなり、イラン在任の米軍人の数も1 万人にのぼった。
さらに米国は自らの立場を強化すべく西側陣営とイランを正式の軍事同盟で結び付けようとした31955年、米国はイランを英国が後援するバグダード防衛条約に加盟させた( 10月11日) 。加盟国はイラク、トルコ、パキスタンで、米国も当初これに加盟すると見られた。しかし、1958年7 月、加盟国のイラクで親英の王制から共和制に移行する革命が起こり、バグダード防衛条約から離脱した。イラク以外の加盟国は中央条約機構( CENTO) として再編されたが、当域内部の紛争や急進派による政権奪取に対してこの機構が無力であることが次第に明らかになると、米国は中央条約機構にオブザーバとして関与はしたが正式加盟は控え、イランと相互軍事協定を締結した( 1959年3 月)4
イランにおける米国の介入度が高まると、その影響力は単に政治や経済面のみならず、社会・文化面においても強まり、イランの米国への依存度を強めさせた。イランは米国と従属関係に入り、西側の権益に深く組み込まれていくが、これはイランの内外政策における選択肢が親西欧、とくに親米に狭められたことを意味していた5。西側陣営との同盟ならびに米国への従属の代償として、シャーは莫大な米国の援助を受けつつ国内の反対勢力を弾圧し、中央集権化を押し進めて、国内の支配を固めた。
ザーヘディ内閣は米国の援助の下で、戒厳令や軍事法廷などを使って、トゥーデ党や国民戦線の弾圧を行った。国民戦線に対しては、処刑や投獄から自宅軟禁まで緩急取り合わせて臨み、モサッデグを見せしめにしようと試みた。しかし、法廷のモサッデグは持ち前の弁舌と気骨でもって、これに抵抗し逆に国民の心を捕らえた。モサッデグは3 年の独房監禁の刑を受け、そのあと、1967年に亡くなるまで彼の所有する村で自宅監禁となった。しかし、王制の廃止を説いた外務大臣ホセイン・ファーテミーは逮捕時に暴行を受け、さらに死刑に処せられた。法務大臣アブール・アリー・ロトフィは殺された。国民戦線は暫くのあいだ非合法となった。
極右勢力に対しては例えば、アーヤトッラー・カーシャーニー師とその仲間は最後の数カ月にモサッデグと袂を分かってシャーを支持したため、さほどの弾圧は受けなかったが、極左勢力は厳しい弾圧を受けた。弾圧を担当したのは秘密警察SAVAK の初代長官、ティムール・バフティヤール将軍である。この時に政治犯を裁く軍事法定など恐怖政治の先例が創られ王制末期まで続くことになった。秘密警察SAVAK は労働省や労働組合員などを介して、次第にその組織網を大学や官庁、大企業内部に浸透させ、国民の間では恐怖心が染みついた。
一方で、シャーは大地主層やバーザール界中間層を疎外しないように気を配った。分益農民の取り分を増やそうとしたモサッデグの政令は棚上げとなり、アラム家など地主貴族層6は地方においても中央においてもその力を維持した。国民議会では地主層の代表がその数を増やした7
  シャーはまた、伝統的( イスラーム 的)な中間層にも気を配った。聖地メッカやキャルバラ、コム、マシュハドの聖地にシャーと妃ソラヤは定期的に巡礼を行い、また、宗ウ界高位の面々との交流を保った8。カーシャーニー師は1956年、しばらく投獄されたが、フェダーヤネ・イスラームと縁を切り、ラズマラー首相暗殺者の処刑に抗議をしないという条件で釈放された。
国民議会の選挙は地方執政官が郊外警備隊(ジャーンダールメリー)と警察を使って管理した。シャーの側近マヌーチェフル・エグバールとアサドッラー・アラムがそれぞれ国民党( ヘズベ・メッリー)と民衆党( ヘズベ・マルドム)を率いて国民議会を牛耳り、さらに憲法修正でもって可決に必要な票数を減少させ、また、財政法案の拒否権をシャーに与えることでもって、国民議会の反対勢力の力を削いだ。また、国民議会の議席数を増やし(136 席から200 席に)、任期を 2年から4 年に変えた9
 国民の間には職場や店先、教室に潜む秘密警察SAVAK の目や耳を恐れ、ことなかれ主義が広まった反面、中間層には西洋的な進歩の証しとして、物的代償を求める風潮が強まった。国家はウラマーの勢力を削ぐべくイスラーム色を薄め、イスラーム以前のアケメネス朝やサーサーン朝を喚起させる民族主義を押し立てていた。
  対外政策は当初、外務省が主導権を持っていたが、間もなく、その役割は単なる政策実施機関に変わった。対外政策の決定はシャーが宮内省内部に作った宮内相首班の外交班の助けを借りて、彼自らが決定した。この宮内省の外交班は公式の機関ではなかったものの、隠然たる力を持ち、政府のなかの政府たる存在となった。
 一方、ソ連はイランによるバグダード条約や中央条約機構への加盟、つづく米国との軍事協定の締結を、自国の安全保障と権益に対する重大な脅威と見なした。これら一連の動きはイランを米国の軍事基地に替え、イランとソ連の国境に米国がミサイルを配備することを可能にするとし、ソ連との協定で嘔われたイラン側の義務に反していると警告した。しかしソ連はイランをこれ以上西側陣営に追いやらないよう、イランとの関係、とくに外交関係を断絶しないように気づかった。イランの側もまた、ソ連との関係をある程度維持しようと努めた。しかし、1950年代を通して、イランとソ連の関係は総じて冷却状態にあった。
ソ連との関係はイランとアラブ世界、特にエジプトのナセル大統領に率いられた急進的勢力との関係悪化とも連関していた。革命的なアラブ民族主義の狼煙を上げたナセル大統領は、パン・アラブ主義を掲げて、シオニズムや植民地主義、帝国主義、当域の親西欧的保守主義に挑戦し、イラン国王の体制も敵視した。また、イラクで新しく生まれた革命体制もナセルを支持してエジプトと共に、イラン国王の西側との同盟関係やイランが事実上イスラエルを承認していることを非難した。1960年、このためにエジプトとイランの外交関係が断絶に至ったのみならず、サウディ・アラビアなど親西欧のアラブ諸国も急進派アラブ諸国の報復を恐れる余り、イランとの関係強化を躊躇した。さらに、たとえばアフガニスタンやインドと言った非同盟路線をとる一部の非アラブの諸国は、イランに対して警戒心を抱いていた。アフガニスタンはイランとのあいだで国境問題を抱えており、インドはイランの同盟国パキスタンとの間でカシミールを巡る紛争を抱えていた。
イランのシャーは周辺域で孤立し、米国の意向を汲々として窺わねばならぬことに不満を抱き、その対外政策を変える必要性を認めたが、そのためには国内の支配基盤を強化する必要があった。もっとも、イラン国内の社会・経済改革の必要性を認識したのはシャーだけではなく米国も同じであった。

2、白色革命
イランの経済状況は1950年代後半から次第に悪化した。1954年から政府は赤字財政を組み、国外からの借入を行った。増大した石油収入も野心的な7 カ年計画や軍事支出には不十分だったためである。この赤字財政は1959年・60年の飢饉と相まってインフレを引き起こした。一方、国外からの借入は外貨準備を枯渇させていた。イランは国際通貨基金IMF ならびに米国からの緊急援助を要請した。IMF は35 00 万ドルの援助を行う条件として、イランがその財政を整理して給与を凍結し、一部の開発事業を棚上げすることを求めた。一方、米国のケネディ政権( 1961年 1月発足) はイランがリベラル派を閣僚に登用すること、農地改革を実施することを条件にして8 500 万ドルを供与した。ケネディ政権はイランの共産化を阻止するには、その社会改革が必要であると考えていた。
ストが次第に増加する状況下で1960年、第20期国民議会選挙を迎えた。シャーの側近エグバールとアサドッラー・アラムによって率いられた二つの政党、国民党と民衆党 のほかに、シャーは米政府の意向に応えるべく国民戦線と独立系の立候補も認めた。しかし、すでに地方の知事は国民議会選挙を制御する体制をつくっていた。投票の結果はシャーの側近が率いる二つの公式政党が巧妙に議席を分け、それが不正選挙もよるものであったことは明らかであった。民衆からの怒りの声にたいしてシャーは選挙結果を無効と宣言し、エグバールに代えて無党派のジャアファル・シャリーフ・エマーミーを首相に任命し( 1960年9 月)、1961年初めに国民議会選挙のやり直しを行った10
やり直し選挙にともなって政治的拘束の緩和がなされ、新たに当選した独立系議員の中には国民戦線を代表する者も含まれていた。国民戦線はキャリーム・サンジャービーやダルユーシュ・フルーハル、若手のシャープール・バフティヤールを中心にして再組織され、また、メヘディ・バーザルガーン技師とウラマーのセイエド・マフムード・タレガーニー師はイラン自由運動を新しく設立して専門職や学生たちの支持を得ていた11
にもかかわらず、シャリーフ・エマーミー内閣は米国の援助取り付けには失敗し、給与を凍結された教師が官憲と衝突した事件の責任をとったかたちで、就任後9 カ月で辞任した。こうしてシャーは米国の信頼が厚いアリー・アミーニー12を首相に任命することになる。
アミーニーはモサッデグ政権で財政相を担当した( 1951-2 年) が、政敵とも意志疎通しうる個人的魅力と政治的洗練さを持っていた。このため、モサッデグ失脚後も、ザーヘディ首相は懸案の石油産業国有化問題の残務を彼に委ねることになった。1956年から1958年彼は駐米大使を勤めたが、この間に彼は米国の信頼を取り付けていた。イランの情勢を憂慮する米政府に、彼は上からの改革、とくに農地改革が必要であることを印象づけていた。シャーは彼を信用していなかったが、米国はアミーニーを首相に据えるように圧力をかけ、シャーはこれを飲んだのである。
アミーニーは首相に就任すると一連の大胆な政策を実施に移した。保守的な地主層が多かった第20期国民議会を解散し、また1957年以来、秘密警察SAVAK の長官を勤めてきたバフティヤールを追放し、さらに国民戦線との対話を開始した。またシャーと大地主に批判的な改革主義者3 名を閣僚に任命した13
その一人、農業相アルサンジャーニーは就任4 カ月の内に全国的な農地再配分に着手した。農地改革第一段階と言われる、1962年のこの農地改革法は次の三つの条款から構成されていた。 1)地主が一カ村以上の農地を持つ場合、地主はそれを国家に売却する。但し、果樹園、茶園、森林、機械化された農場は例外とする。 2)地主に対する補償はこれまでの租税額に基づき、10年にわたって支払われる。 3)国家によって購入された農地は速やかに分益農民に売却される。
この農地改革の狙いは自作農を創出することにあった。国民議会がアミーニー首相によって解散させられていたため、農業相アルサンジャーニーは国民議会の抵抗を受けること無く、まずアーゼルバーイジャーン州から農地再配分を開始した。
アミーニー政権は国際通貨基金IMF が要求した緊縮財政策も行ったが、僅か14カ月で辞任に追い込まれた。緊縮財政が国民の不満を煽ったこと、また、国民戦線が秘密警察SAVAK の解体と自由選挙の実施を要求してアミーニー政権への協力を拒否したこと、さらに緊縮財政で軍事予算を巡ってシャーとアミーニー政権が対立したとき、米国がシャー支持にまわったことが短命政権に終わった原因であった。
シャーはアミーニーに替えてアラム( 民衆党党首) を首相に任命した。アラムは解散していた国民議会を再開させ14、農業相にはアルサンジャーニーに代えて軍人を登用し農地改革を第二段階計画で骨抜きにした15。地主は分益農民の代わりに借地人や賃金労働者あるいは農業機械を導入することで、農村の半分を維持することが認められた。アルサンジャーニーの意図したことは自作農を増やすことであったが、シャーの意図したことは分益農民を減らし、商業地主層を保持することにあった。
 農地改革はアミーニー政権が着手し、しかも、その急進的な内容が骨抜きにされたにもかかわらず、シャーは農地改革 を自らが行ったものと主張し、これを白色革命と呼ばれる6 項目の計画の一項目に位置づけて、国民投票に問うた1963年1 月)。その6 項目とは 1)農地改革、 2)森林の国有化、 3)国有企業の民間への売却、 4)工場労働者への利益配分、 5)婦人参政権、 6)文盲撲滅隊の創設である。
このように、シャーの白色革命は、農地改革だけでなく産業、教育、行政面の改革を包含しイラン社会の全面的な変革を射程に入れたものであった。この白色革命は石油収入の増大とともにイランの経済と社会を大きく変貌させることになる。

3、新しい外交
白色革命による国内支配基盤の強化は石油収入の増大とあわせて、対外政策を変える機会をシャーに与えた。シャーは対外政策の基本として内政不干渉と平和的共存を掲げ、次のように宣言した「政治・社会的に異なった制度を持つ国々との関係を、平和裡の共存から国際的な協力と理解のそれに変えねばならない・・異なったイデオロギーや政治体制の尊重、もしくは他国の内政不干渉の原則の尊重無くして、理解と平和の樹立は達成できない」と。
こうしてシャーは共産主義には反対しつつも、ソ連との政府間レヴェルにおける関係正常化を追求した。1962年、彼はソ連にとって脅威となる軍事基地をイラン内部に設置しないとソ連に保証したのに引き続ォ、中央条約機構の軍事的側面ではなく、その経済的側面を強調すべく中央条約機構の付属機関としての「地域開発協力機構」を1964年7 月に結成した。構成国はイラン、トルコ、パキスタンであった。当初はアフガニスタンなど、ソ連を除く当域諸国の参加を考えていたがこれは実現に至らなかった。一方、米国のジョンソン政権はイランが石油収入を増大させ、西側陣営での確固たる足場を構築したのを見て、1965年イランを先進国と位置づけ、1967年までに米国の援助を打ち切る意向を発表した。この決定はシャーが米国・イラン関係を損なず、ソ連との関係を正常化する上でも好都合であった。
ソ連もまた、米国への従属度をイランが減らすのを歓迎し、国内的・地域的にイランが安定することがそれには必要であると見た。ソ連はイランからの天然資源、とくに天然ガスの供給を望んでおり、シャーの呼びかけに応じて、両国は経済・軍事協定を締結した。1966年1 月に締結された経済協定でイランはソ連に1970年から6 億ドル以上の天然ガスを供給し、一方、ソ連はエスファハーンにおいてイラン初の製鉄所を、またシーラーズでは機械工具プラント、そしてイラン北部からコーカサスに至るガス・パイプラインの建設を行うことになった。また、軍事協定ではソ連が1967年2 月からイランに約1.1 億ドル分の軽兵器を天然ガスの代価として供給することになった。
この協定は両国関係の転回点となった。ソ連との良好な関係はイランにソ連という新たな技術支援国をもたらしたのみならず、シャーが西側を牽制する場合の梃子の役割も果たした。また、エジプトやアラブ急進派諸国との関係を改善させ、ソ連と密接な関係を持つアフガニスタンやインドに好印象を与え、かつ国内の反体制派が敵対諸国と協力関係を持つ可能性を減少させた。シャーはこうして1960年代の終わりまでに独自外交を展開できるようになった。
シャーはまた、石油輸出国機構(OPEC)の一員として国際石油企業によるイラン石油産業の独占状況に挑戦した。モサッデグの石油産業国有化問題を米国の助言を受け入れて解決した後、シャーは漸進的に自国の立場を強化する姿勢をとっていた。
 この漸進的姿勢は国際石油企業が中東の石油産業を支配している時代には適していた。しかし1973年の第 4次中東戦争時のアラブ諸国の石油禁輸など、世界の石油市場と国際政治にひとたび変化が生じると、石油輸出国機構の集団的力を利用して、石油を支配しようとする姿勢を一挙に押し出した。こうしてシャーは1970年から75年にかけての石油輸出国機構による一連の石油価格の値上げに重要な役割を果たし、産油大国として未曾有の富と対外的発言力を獲得するのに成功した。先進国はアラブ産油国が非現実的かつ挑戦的な姿勢をとっていたため、非アラブ国のイランの石油に依存を余儀なくされ、オイル・ドラーの還元を図るべく、こぞってシャーの下に参詣することになった。

4、経済ブーム
白色革命は石油収入の増大に支えられて、イランの経済と社会を大きく変貌させた。1963・64年の石油収入は5.5 億ドル/ 年であったが、1968・69年には9.6 億ドルとなり、1970・71年には12億ドル、1973・74年には50億ドル、そして石油価格が4 倍に跳ね上がった後の1975・76年には200 億ドルとなった。
石油収入の多くが王室関連支出や官僚の雇用、核施設建設計画や超近代的な兵器の購入、さらには汚職にも費やされたことは否めない事実であるが、経済面に注入されたこともまた事実であった。例えば鉱工業開発銀行が民間企業に低利ローンを提供する間接的な形、あるいは、予算や5 カ年開発計画( 第三次1962ー68、 第四次1968ー73、 第五次1973ー78) といった直接的な形によってである。
 95億ドルをつぎ込んだ第三次・第四次計画のお陰で、国民総生産は1962/70 で8 %、1972/73 で14%、1973/74 で30%の成長率となった。初期の開発計画は産業基盤、とくに交通システムと農業( 農地改革と大規模灌漑) に、後期の計画では鉱工業、人的資源に力点が置かれた16
第三次・第四次計画では農業に約12億ドルが割り当てられた。これは次の二通りの使われ方をした。第一のそれは開墾ならびに耕運機や肥料・農薬への補助金としてであった17。第二のそれは農地改革を介した形であった。アルサンジャーニーの農地改革案は骨抜きにされたが、それでも、その第一・第二段階さらに1973年からの第三段階で小作農が自作農となって旧来の地主はその足元を揺るがされ、商業農業が促進されて農村の社会構造を変えた18。 
 これらの結果、農業の商業化と遊牧民の定着化の進展とともに、国の中心地域では農村人口が伝統的な地域意識を失う反面、国民意識の定着化が進行した。辺境域でも村や部族への帰属意識が、言語や文化に基づく、より広い帰属意識に取って代わられ、自らをクルドやトルキャマン族、アラブ、ロル族、バルーチ族、アーゼリー( アーゼルバーイジャーニー)として意識しだした。
都市部の住民も開発計画で大きい影響を受けた。25億ドル以上を工業に割当てた第三次・第四次計画では次の二つの野心的目標が掲げられていた。第一に衣料、缶詰、飲料、ラジオ、電話、テレビ、自動車など国内市場向けの消費物資を生産すること。第二に、基幹、中間材産業(例えば石油、ガス、石炭,銅,鉄、石油化学、アルミニュム、機械工具)の成長を促進することであった。1963年から1977年にかけてイランは国の投資によって産業ブームを迎えた。製造業が国民総生産に占める割合は11%から17%に上昇し、工業成長率は5 %から20%に急成長した19
この間、都市化も急激に進展した。1966年には人口の38%が人口5 千人以上の都市部に居住するにすぎなかったが、1976年には48%となった。人口が10万人以上の都市に限定すれば、1966年に21%であったのが1976年には29%となった。テヘラン人口は272 万人から450 万人になり、エスファハーンは42万人から67万人になった。都市人口の増加は主として給与所得者、工場労働者、未熟練労働者の急増を伴っていた20

5、 独裁君主
シャーはこの社会を軍部、王族や側近、官僚の三本柱によって支配し、さらに単独政党の下で国土と国民の隅々にまでその支配を貫徹させることを図った。そのために王権の正統性をイスラーム以前の古代ペルシア以来の帝王の伝統に求め、西洋化を推進することによって王権を牽制するイスラーム宗教界ならびにこの宗教界と密接に繋がるバーザール界を切り捨てようとした。
支配の三本柱のうち、とくに大黒柱として軍部が重視された。1963年には20万人の兵力であった軍は1977年に41万人に増加し、軍事予算も約3 億ドルから73億ドルに増大した。これらの軍事予算でシャーは米国製戦闘機など最新鋭の兵器を買い漁った。1977年にはペルシア湾で最大の海軍力、中東で最新鋭の空軍力を持ち、世界でも第 5番目の軍事力を誇ることになる。
この軍事力を支えるために、シャーは治安組織も拡充した。秘密警察SAVAK は5300人の正規職員に加え無数の情報提供者を擁していた。秘密警察SAVAK はネッマトアッラー・ナーセリー将軍のもとで、報道機関の検閲、公職志願者の資格審査、そして異論者の拷問にも従事した。治安組織としては秘密警察SAVAK の他に「王立監査官」と「J2局」があった。「王立監査官」は1958年に設立され、ファルドウスト将軍の下で秘密警察SAVAK と軍部、富裕な家族の資産を監視した。「J2局」は秘密警察SAVAK と王立監査官を監視した。
第二の柱である側近たちは、潤沢な給与や年金、冗職を得ること、すなわちシャーからの見返りでもって王制を支持していた。
 王族はその資産の内実を明らかにはしていなかったが、国の内外に50億から200 億ドルの資産を有すると外部で推測されていた。これらの資産は主として四つの財源から得られていた。
一つはレザー・シャーが獲得した農地であった。モサッデグ時代に王族はこれらを失ったが1953年のクーデターの後で取り戻し、農地改革案が起草されるまでには機械化農業に換えていたため、それ以後も保持し続けることができた。パハラヴィー王家はイランの最大の地主であった。シャー自身がゴルガーン近辺に巨大な商業農場を有し、彼の兄アブール・レザーはギーラーンに同様の農地を持ち、イラン第一の農夫というあだ名を持っていた。他の王族もファールス、マーゼンダラーン、クーゼスターンのアグリビジネスの株を持っていた。
第二の財源は石油収入であった。一説によると王制最後の数年間に石油収入から凡そ20億ドルが外国にある王族名義の秘密口座に振り込まれた。
第三の財源は事業であった。好景気に乗じて王族は国立銀行から多額の融資を受けつつ、多様な商業や産業に投資した。1970年代初めまでに王族はイランで最も裕福な企業家になった。シャー自身も二つの機械工具工場、二つの自動車工場、三つの鉱山、三つの紡績工場、四つの建設会社の株主となっていた。ある王子は八つの大企業の株主となっていた。建設、保険、セメント、織物、輸送業界などである。他の王族たちも銀行からアルミ精錬、ホテル、カジノにいたる150 の企業の株主となっていた。
第四の財源はパフラヴィー財団であった。この財団は毎年4000万ドル以上の補助金を受けながら国の経済のあらゆる分野に浸透し、1977年までに207 の企業の株主となり、経済の基幹部門に隠然たる影響力を行使していた。この財団は慈善事業の名目で王族が税金逃れをする隠れ蓑の役割を果たすことで王族の財源となり、また体制支持者に報酬を与えるパイプとなっていた。
王制を支える第三の柱である官僚は14年間のあいだに12省庁(15万人の公務員)から19省庁(30万人以上の公務員)に変貌した。官僚の増殖に伴って地方州行政区分の再編がなされ、州の数も10州から23州に増えた。都市部では被雇用者のうち、二人に一人が国家公務員と言われた。官僚の劇的な増殖によって国家権力は市民の日常生活にまで浸透することが可能となった。1970年代半ばには国家は数千人の市民にその給与や賃金のみならず医療保険、失業保険、奨学金、住居などの社会サービスを自由に与奪することができた( バーザール界は社会サービスの対象から除外されていた)。地方でも国家は辺境地にまで支配を及ばし、イラン史上初めて地方の族長たちや地主たちに取って代わり、村落住民を直接支配することになった。数世紀にわたって地方の名望家たちが村落住民と国家のあいだに介在していたが、いまや、巨大な国家官僚が農産物価格や灌漑用水の配分、遊牧民の移動ルートを決定し、これを拒むものはなかった。さらに官僚は89の農業公社( State Farm) や170 万人を抱える8500もの農村協同組合を監督した。1974年には政府が地方の再編案を策定し、一部の地方を辺境未開発地として住民を20の拠点に集めるという構想を練るほどに中央の統制力は強まった。
 1975年、王制を支える上記の三つの柱に加えて、あらたに第四の柱として単独政党制をシャーは導入した。1960年から1963年の危機のあと、二党体制が続いていた。この間の変化といえば、唯一1963年末に国民党を新イラン党に替えて、その党首ハサン・マンスールを首相に任命したことだけであったが、彼は石油利権を外国企業に新たに譲渡する決定をしたことで、これに憤慨した神学徒( フェダーヤネ・イスラームのメンバー) によって暗殺された(1965年1 月)。
代わりの首相にシャーは彼の義理の兄弟に当たる副党首アミール・アッバース・ホヴェイダを任じた。ホヴェイダの出身は17世紀にまで遡る官僚の家系であったが、19世紀後半にバーブ教に改宗したという噂のある家系であった。彼自身はレバノンで政治学を学び、1940年代後半に帰国したあと、外務畑、NIOC、新イラン党でキャリアを積み、首相に任命されたあとはイラン革命前の1977年まで12年間にわたって首相職を勤めることになる。
 シャーはこの二政党制を改めて、新たに復活党( ラスターヒーズ) の単独政党体制を宣言し、国民の入党を強要したのである(1975年3 月)。
復活党の主要目的は旧式の軍国的専制主義を全体主義的な単独政党国家に変えることであった。「民主主義的な中央集権主義の原則を守り、社会主義と資本主義の良き面を統合して、政府と国民の間に弁証法的な関係を創り、もって偉大なる指導者が偉大なる文明にむけて白色革命を完遂するのを支援する」。「アーリヤ人の光であるシャーはイランから階級という概念を払拭し、階級・社会闘争の諸問題すべてを一挙に解決した。シャーハンシャー( 王のなかの王の意) は単なる政治指導者ではなく、精神的指導者でもある。単に道路やダムを造るだけでなく、臣民の心と思想を導く人である」。復活党はこのように宣言した21。シャー自身もこの政党の哲学は白色革命の諸原則の弁証法に基づくものであり、支配者と人民の関係を緊密化するものであると述べていた。
復活党は1975年を通してその全国的な組織作りをおこなった。中央委員会を創り、その政治局議長にホヴェイダ首相を据え、国民議会のほとんど全ての議員をこれに加入させた22
 また、復活党は秘密警察SAVAK の支援を受けて、国民の生計に関連する省庁を支配下においた。例えば労働省、鉱工業省、都市住宅整備省、厚生省、農村・農村共同組合省などである。また通信や報道に係わる機関もその監視下においた23。この結果、著作家たちはより厳しく検閲と弾圧を受けることになり、刊行物の発行数は約三分の一に落ちた。
 統制の対象は給与所得者である中間層、都市労働者層、村落域の民衆のみならず、伝統的に統制が難しかったバーザール商人や宗教界にまで及んだ。
 たとえばバーザールにその支部を置いてバーザールの小規模事業所から献金を募ったほか、かれらの従業員に対して最低賃金制を課し、また、労働省にその従業員を登録させて事業所に健康保険料の一定率を定期的に支払わせるなどである。また、伝統的な職能組合( ギルド )を解体して官製のそれに替え、職能組合会議所を統制下に置くことも図った。テヘランの職能組合会議所は政府の役人や非バーザールの企業人によって運営され、地方都市の職能組合会議所は知事の直接管理下におかれた。政府はさらに基礎食糧である小麦や砂糖、食肉の輸入・配分を担当する国営企業を創ることで、バーザールの存在基盤を脅かした。
 宗教界に対しては、宗教指導者達( ウラマー) を中世の黒い反動と非難し、1976年( イスラーム歴1355年) には、イスラーム暦を廃して新規につくった帝王暦の2535年に換えた。この年号は古代ペルシアのアケメネス朝からの2500年に当代シャー( 国王)の治世35年を加えた数である。大学構内では女学生のチャドル着用を認めず、また宗教寄進( ワクフ) の会計を精査し、宗教書の刊行は国のワクフ庁が独占した。また、文盲撲滅隊に倣って宗教伝道隊をテヘラン大学の神学部の支援のもとに創り、農村域で官製イスラ[ムを布教させた。国民議会もイスラーム法を無視して女性の結婚年齢を15歳から18歳に、男性は18歳から20歳に引き上げる法を成立させた。司法省も1967年に成立した家族保護法の徹底した施行を命じた。この法もイスラーム法を無視して、家庭問題を世俗法廷に管掌させるものであり、妻たちに対する夫の権限を制限する内容であった24
宗教界は復活党のこうした一連の反イスラーム的姿勢に反発した。コムのフェイジィエ宗教学院は抗議のために閉鎖し、街頭では神学徒が官憲と衝突したが、約250 名の神学徒が拘置されて兵役におくられた。エスファハーンのシャムサバーディ師は帝王暦に抗議する説教をした数日後に暗殺された。ホメイニー師は亡命先のイラクから信者たちに復活党から身を引くよう呼びかけた。この呼びかけの数日後、当局は国内にいた彼の側近たちを逮捕した。ハーメネイ師、モンタゼリー師、ベヘシュティ師などで革命後に要職を占めることになる人達であった。

6、大国への野望
この間、ペルシア湾では新たな局面が展開していた。英国は1968年1 月、スエズ運河以東より1971年末までに撤退する意向を表明し、その一環として一世紀以上にわたって保護下に置いてきたアラビア半島の湾岸域から軍を引き揚げることになった。当時、湾岸域では共産主義革命勢力の活動が増大しつつあった。その代表はアラブ湾解放人民戦線(P.F.L.O.A.G. ) であった。この革命勢力は湾岸の親西欧政府に反対し、オマーンの南端地方ドファールで反オマーン政府活動を行っていた。また、イラクとイランの間ではシャット・ル・アラブ川の国境問題と両国のイデオロギーの違いを巡って国境上で小競り合いが生じていた。また、中央条約機構の同盟国であるパキスタンは1971年にインドの軍事的圧力でバングラディシュの分離独立を認めざるをえなくされて弱体化した。これはパキスタン内部でアフガニスタンに支援されたバルーチ族とパシュトーン族が、それぞれバルーチスターンと北西辺境州で自治あるいは独立を求める運動を惹起させたが、その背後にはソ連の影があった。ソ連は当時、インド、アフガニスタン、イラク、ソマリア、南イエメンとの友好関係を拡大しつつあり、のちにエチオピア、アンゴラ、モザンビークがこれに加わった。
ペルシア湾のホルムズ海峡は西側経済の生命線とも言うべき石油輸送の大動脈であった。米国が直面した問題は、英国が撤退したあと、ソ連やアラブ急進派がここに進出するのを如何に阻止するかという問題であったが、当の米国はベトナム戦争の泥沼に足をとられていた。この状況下で米国のニクソン政権は1969年、グアム島でニクソン・ドクトリンを発表した。米国の世界的権益を護るために地域諸国に依拠し、かつそれを支援するというものであった。このドクトリンに基づいて米国はペルシア湾域の二本柱としてイランとサウディ・アラビアを選んだ。但し、サウディ・アラビアは人的資源に事欠くのみならず、イスラエルと事を構えるアラブ民族の国としての問題を持っていた。一方、イランは十分な人的資源があるのみならず、非アラブのペルシア民族であり、しかも事実上、イスラエルを承認しそこに石油を輸出していた。このため、米国はこの二本柱の国のうち、専らイランに依拠して当域の米国の権益の擁護を図ることになった。こうしてイランは英国撤退後の空白を西側陣営の代表として埋める役割を担い、地域大国としての道を歩みだすことになる。
イランは、英国が湾岸域から撤退するにあたり、英国の保護領の下にあったバハレーンの領有権を主張した。バハレーンは16世紀初頭にポルトガルが支配したが、1622年イラン( サファヴィ朝) がポルトガル勢力を駆逐した。その後もイランの支配力は残ったものの次第に土着勢力が台頭し、1783年ハリーファ族がバハレーンを奪い、やがて英国の保護領となったという経緯がそこにはあった。最終的にイラン国王はバハレーンの領有権を取り下げるが、その代わりに1971年、英国軍が撤退しアラブ首長国連邦( U.A.E.) が独立する間隙を縫って、アラブ首長国連邦の沖合の3 島を占領した。アブー・ムーサー島と大・小トンブ島である。アブー・ムーサー島はアラブ首長国連邦を構成する首長国の一つであるシャルジャとの合意の上であり、イランがシャルジャに同島およびその周辺海域からの石油収入が750 万ドル/ 年になるまで、その半額をシャルジャに援助し、シャルジャは主権に関しては曖昧なまま、同島の半分をイランが軍事占領するのを認めるという内容であった。しかし、大・小トンブ島に関しては別の首長国ラス・アル・ハイマーの合意無き軍事占領であった。これら3 島はペルシア湾口のホルムズ海峡に位置して戦略的に重要な意味を持っていた。シャーはもしイランがこの3 島を護らなければ、東側陣営の破壊活動勢力がホルムズ海峡を閉鎖することになると主張した。
またイランは1969年に、イラクとの国境をシャット・ル・アラブ川のイラン側河岸とした1937年の協定を無効と宣言した。シャット・ル・アラブ川を航行するイランの船舶はそれ以降、当協定を無視してイラク国旗の掲揚と通行料の支払いを拒否した。イラクからの抗議に対してイランは武力示威でもって応えた。イラクはアラブ民族の立場からイランによるホルムズ海峡3 島の領有化にも反発し、1972年4 月、ソ連と友好条約を締結した。
その翌月の1972年5 月、米国のニクソン大統領とキッシンジャー特別補佐官がイランを訪問し、一連の協定を締結した。イランがその周辺域で米国の権益を護る見返りに、米国はシャーが望むだけの兵器をイランに売却し( ただし核兵器を除く)、軍事顧問を増やすこと、また米国はイラン・イラク国境域に居住するクルドを支援してイラクに圧力をかけることが合意された。
1975年3 月、圧力に屈したイラクはイランに譲歩してアルジェ協定に調印した。国境線をシャット・ル・アラブ川のイラン側河岸から中央線に変更して川を共同管理すること、イランは反イラク・クルドへの支援を停止することがその内容であった。
また、イランは1971年から1977年までバルーチ族とパシュトーン族の自治運動と闘うパキスタンに軍事援助を行ったほかに、1973年からはオマーンに3000人の兵を支援出兵した。オマーンはマルクス主義体制を掲げた南イェメンが支援するアラブ湾解放人民戦線(ドファール解放戦線)に悩まされていた25。さらに1977年にはソマリアに軍事援助を行った。ソマリアはソ連側陣営から西側に鞍替えして、ソ連が支援するエチオピアと対抗していた。
 エジプトでは1970年にナセル大統領が亡くなるとナセルを継いだサダト大統領がソ連との関係を清算し、逆に米国との関係を改善してイスラエルと和平した。このエジプトに対しても、シャーは密接な関係を構築した。
 このように、イランは西側陣営の権益に沿って反共政策を展開したが、かたやソ連との良好な関係を損なわないようにも努め、かつ、保守・穏健派のアラブ諸国や、非アラブのパキスタン、アフガニスタン、インドといった近隣諸国との友好関係を維持し、バランスをとろうとした。
シャーはやがてイラン権益の範囲が西アジア、中央アジア、ペルシア湾を越えると述べたが、後に彼はイランの最終目標を「偉大なる文明」と定め261980年代末には世界の5 大通常兵器大国の一つになるという目標に向けて数十億ドルもの軍事力増強計画に着手した。
 この軍事力増強は産業開発計画とセットになっていた。20世紀末までにイランの石油は枯渇すると見たシャーは脱石油の自立経済を目指した。1973年の第 4次アラブ・イスラエル戦争で石油戦略が発動されたのに伴って石油収入が4 倍に膨れ上がると、石油収入の増大に沿って支出を増し、工業化政策を加速させた。彼は当時作成中であった第 5次5 カ年計画( 1973-8 年)の見直しを命じ、それまで4 回実施された5 カ年計画を合わせた規模に拡大して、それを1974年から実施に移した。「偉大なる文明」を実現すべく、イランを現代で最も進んだ先進国に変えることをシャーは夢見ていた27
シャーはまさにその権勢の絶頂期にあった。しかし、彼の経済・軍事計画は1977年までに多くの問題に直面し始めた。国外では産油諸国やインドがイランの経済・軍事大国主義に反発し、イラン主導の共同市場案や集団安全保障案を受け容れようとしなかった。国内では経済開発政策と軍事力増強がバランスを崩し、そして、反シャー運動がそのうねりを強めつつあった。しかし、米国のカーター大統領はシャーを強力な指導者と賞賛し、イランを世界における安定勢力と称してシャーへの支援を保証した(1977年11月)。
---------------------------------------------------

1     Seyyed Mohammad Khatami, Gozide-ye Sokhanraniha-ye Ra'is-e Jomhur darbare-ye Touse'e Siasi, Touse'e-ye Eqtesadi va Amniyat,  Sal -e Nokhost  (jold-e avval), Tehran, Entesharat-e  Tarh-e Nou.p.38

2     シャーは米国からの援助を引き出すためにソ連とアラブ急進派諸国の脅威を強調した。一方、米国のアイゼンハワー政権はイラン王制への全面的な政治的支持を表明して技術支援計画による援助を与え、シャーの支配を介してイランを米国に従属した同盟国に換えようとした。

3      当初、米国はモサッデグ政権と軍事同盟を締結することも検討した。1953年2 月、アイゼンハワー大統領は当域に米国が後援する同盟を創る必要があると論じ、ダレス国務長官はトルコ、パキスタン、イランからなる北層同盟を考えた。しかし、英国のみならずモサッデグも反対したため、この北層同盟構想は実現に至らなかった。

4     この協定の下で米国はイランに対する侵略があった場合、相互の合意に基づき軍事力行使を含めた適切な手段を講じることになった。

5     かつての非同盟で、外国支配のいかなる支配にも反対する立場から、イランは共産主義と急進的なアラブ民族主義に敵対する立場にかわった。シャーがこの変貌の先陣に立っていた。1954年12月、シャーは次のように述べた「イランは自由ならびに民主主義に関して西側世界と多くの共通項を持ち、西側世界の生活様式は我々のイスラームの諸価値に合っている。西洋化は我々の理想であり、西側との同盟はイランの権益に最も合致する」。

6       アラム家、アラー 家、ヘクマト家、ゾルファガーリー家、カラーグーズルー家、アルダラーン家、バヤート家、デヴェルー 家、バフティヤーリー家、ヘダーヤト 家、ファルマーンファルマー 家など。 

 

7     地主層は17期国民議会( 1952-53) の49%から19期( 1956-60) の51%に増加した。

8     例えば大アーヤトッラー ・ボルジェルディ、アーヤトッラー ・ベフバハーニー、テヘランの金曜礼拝導師。

9      シャーは閣僚が彼を凌駕することに懸念を抱いていた。ザーヘディ首相もシャーに懸念を抱かれた一人であった。当初米国はザーヘディを真の実力者と見なしていた。ザーヘディの息子はシャーの最初の妃の一人娘シャーナーズと結婚したにもかかわらず、ザーヘディ首相は1955年4 月、健康上の理由で辞任を要求され、スイスに療養に出された。事実上の流罪であった。

   シャーはホセイン・アラーを繋ぎの首相に任じたが( 1957年4 月まで)、やがて、忠実は臣下マヌーチェフル・エグバールを見いだし、首相に任命した( 1957年4 月-1960年8 月) 。こうしてシャーは1950年代末までに全国の殆どで、そして特に知識層と都市労働者に対して支配を強化した。

 

10    シャリーフ・エマーミーによる国民議会選挙のやり直しの結果、国民党が69議席、民衆党が64議席、32議席が独立系の議員によって占められた。

11    E.Abrahamian, Iran Between Two Revolutions,  Princeton, New Jersey, Princeton University Press,1984,p 460.

12    アミーニーはカワームの庇護を受け、モサッデグのかつての同僚であった。彼はカージャール王朝の第 5代国王モザッファロッディン・シャーの孫にあたるという家柄にもかかわらず、急進的な立場をとり、1940年代半ばから農地改革を主張していた。

13    司法相のヌールアッディーン・アラムーティ、教育相のモハンマド・ダラフシェシュ、農業相のハサン・アルサンジャーニーであった。

14    第21期国民議会選挙

15    計画の解釈に手加減をくわえて、第一段階で影響を受けなかった地主に非機械化農地を150 ヘクタールまで所有することを認め、また、超過分の農地に関しては5 つの選択肢を認めた。 1)農民に30年の借地契約で貸し出す。 2)双方合意の価格で農民に売却する。 3)過去の収穫分配の比率に沿って農地を分割する。 4)地主と農民共同の農業組織を設立する。或いは 5)農民の耕作権を買い取る、である。また、宗教財団はその農地を99年間貸し出すか、もしくは5 年契約で賃貸することが認められた。

16      産業基盤には第三次・第四次計画で39億ドルがつぎ込まれた。その結果、1963年から1977年の間にデズフール、キャラジ、マンジェルに大型ダムが建設され、発電量は5 億キロワットから155 億キロワットに増大した。港湾施設も4 倍の輸入貨物を捌けるようになり、エンゼリー、バンダルシャープール、ブーシェフル、ホッラムシャフルの港湾が近代化され、チャーバハールでは新しい港湾建設が始まった。鉄道も800 km以上延伸され、道路も2 万km以上が建設された。

17    1963年から77年の間に灌漑事業は24万ヘクタールの耕地をもたらした。耕運機は3 千台から5 万台に増え、肥料は4 万7千トンから約100 万トンに増加した。

18    その結果、1970年代初期までには地方には次の3 階層の存在があったとアブラハミアン E.Abrahamian は指摘する。

 1. 不在地主:  これは王族、宗教財団、アグロビジネス( 多国籍企業を含む)や故意に設けられた法の抜け穴を利用した旧来の地主たちであった。法の抜け穴と言うのは、地主が機械化するか、現金地代とするか、或いは茶. 堅果. 果物を栽培すれば、かなりの農地の所有を認めると言うものであった。その結果、約4 万5 千家族が全国の耕地の約2 割りを所有していた。

 2. 自作農:  従来の自作農に加えて農地改革の結果、あらたに164 万家族が加わった。新参者の多くは村落の長( キャドホダー) や地主の差配( モバーシェル) や分益農たちであった。農村人口の5 %に過ぎなかった自作農は、農地改革後76%を占めるようになった。しかし、こうした自作農は存続を保証されてはいなかった。ほとんどの地域では7 ヘクタールが生活を維持する上で最小限必要と見られていたにもかかわらず、1972年時点で280 万家族の自作農の内65%に当たる家族は5 ヘクタール以下の農地しか持っていなかった。10から50ヘクタールを所有していたのは僅か、17%に当たる60万家族に過ぎなかった。政府は1967年以降、小規模農地の問題を整理するために小規模農家に対して国営の農業公社( Farm Corporation) に加わり、農地とこの公社の株を交換するように勧めた。

 3. 農業賃金労働者:  これは農地改革の恵みを受けなかったホシュネシーン( 農地も持たず、分益農でもない農民) 及び定着を余儀なくされた遊牧民たちから構成された。110 万以上の家族からなるこの層は農場労務者、あるいは羊飼い、村の建設労務者、近辺の産業都市への通勤労働者、また、1970年代初期に地方で増えた絨毯、靴、衣類、紙、砂糖、たばこ、家具など小規模工場の賃金労働者となった。

 

19    大規模工場のなかには旧来の紡績や1930年代の石油施設のみならず、主要都市での新しい織物工場(エスファハーン、カーシャーン、テヘラン、 ケルマーンシャー、)、製鉄所( エスファハーン 、アフヴァーズ) 、精油所( シーラーズ、タブリーズ、コム、テヘラン、 ケルマーンシャー) 、石油化学( アバダン、 バンダルシャープール、 カーグ島) 、機械工具( タブリーズ、アラーク、 アバダン) 、アルミ精錬所( サーヴェ、 アフヴァーズ、 アラーク) 、肥料工場( アバダン、 マルヴェダシュト) 、自動車、トラクター、トラックの組み立て工場( サーヴェ、 テヘラン、アラーク、 タブリーズ ) があった。電話は1965年の生産零から1975年には18万6000器に、自動車は7000台から10万9 000 台に増加した。こうした趨勢のなかで政府は1976年、数年のうちにイランは西欧の生活水準を越え、世紀末には世界 5大産業国になると予測するに至った。

 

20            こうして1970年代半ばには都市住民は大きく次の4 階層に分けられた。

   1. 上層階級、  これは千人以下で次の6 の集団から構成されていた。

         1)63名のパフラヴィ王室。

         2)1960年代の農地改革以前から都市型事業に関心を移していた名望家層。例えばアミーニー 、アラム、バヤート、カラーグーズルー、デヴェルー、モガッダム 、ジャハーンバーニー 各家。 

 

         3)1960年代の農地改革をアグロビジネス、銀行、商社、工場を設立することで切り抜けた企業・名望家層。例えばホダーダード・ファルマーンファルマーイヤーン、アミール・ティムールターシュ、メヘディ・ブーシェフリー、ヌーリー・エスファンディヤーリー。

         4)政府の契約や管理取締りで利益を上げた高級官僚・軍人・政治家など約200 名。

         5)第二次大戦中および1960年代70年代の石油ブームで巨利をえた旧来の企業家。 例えばメヘディ・ナマージー、ハビーブ・サーベティ、ガーセム・ラージェヴァルディ、ハビーブ・エルガーニアーン 、ラスール・ヴァハーブザーデ 、ハサン・ヘラーティ 、アサドッラー・ラシーディアーン 、モハンマド・ホスローシャーヒー 、ジャッファル・アハヴァーン など。

         6)王室や従来の企業家、多国籍企業などのつながりで1960年代末期に巨大な企業帝国を構築した6 人の新興企業家。 アフマド・ヒアミー 、マフムード・レザーイ、ホジャベル・ヤズダーニー、モラード・アーリヤ。

  こうした富裕層の財源は商業農地のみならず、主要民間企業の85%を所有することに依っていた。例えば金融、製造、貿易、保険、建設などの業界である。上層階層のほとんどはムスリムであったが、一部の高級官僚は王室も関与していたテヘランのフリーメイソン支部に参加していた。また、ヤズダーニ やエルガーニアーンやアーリヤといった人達はバハーイ教徒あるいはユダヤ教徒の出身であった。このため上層階級はシオニスト、或いはイスラエルのハイファに本部のあるバハーイ教徒、もしくはロンドンのフリーメイソン結社を介した英国帝国主義者の陰謀の手先であるとの噂がバーザール界巷間では囁かれていた。

 

 2. 有産中間層: この層は凡そ百万家族で、相互に緊密に繋がる次の三つのグループを作っていた。

         1)まず中間層の核を構成するバーザール界で約50万人の商人、店主、貿易商、職人たち。

         2)バーザール以外に投資した都市の企業家。その投資先は数千もの集合商店、村落域の工房( 42万所) 、中規模の都市型工場( 10名から500 名の従業員を抱える) など。

         3)約9 万人の宗教指導者たち、これには凡そ50名のアーヤトッラー、5000名 のホッジャトル・イスラーム、一万人の神学徒のほか、低位のムッラーたちが含まれていた。

  このうち、 2)と 3)の宗教指導者はバーザール商人ではないが、血縁ならびに金縁で緊密に繋がっていた。

  近代的な産業の急成長にもかかわらず、こうした伝統的な産業従事者もなおその勢力を維持していた。バーザール界は全国の手工業生産の半分、小売り業の三分の二、卸売業の四分の三を支配していた。他の職業は殆ど組合や職能組織( ギルド )が無くなったのに対してバーザールはなお、独立した職工、商人ギルドを維持し、その長老たちは数千人もの店員、職人たち、バーザールの行商人たちを支配していた。

  さらに、宗教指導者達( ウラマー) は全国津々浦々の宗教諸施設を支配していた。例えば,約5600の都市のモスク、数多くのワクフ( 寄進財・地) 、幾つかのホセイニエと呼ばれる宗教集会所、6 つの主要な宗教学院( コム、 マシュハド、タブリーズ、エスファハーン、シーラーズ、ヤズド ) などである。

  事実、1960年代の好景気のお蔭で余裕が出たバーザール商人たちは主要な宗教学院を拡張し、1970年代半ばには、宗教界が説教師を定期的にスラム街や寒村に派遣できるようになっていた。経済繁栄は皮肉にも伝統( イスラーム)勢力を強化することにもなったのである。また、バーザールの影響力は村落の商店や行商人を介して、また、農地改革後創られた商業農場を介して、あるいは1960年代後半に需要の高まりでつくられた地方の靴・紙・家財・絨毯などの工場を介して周辺部にまで及んだ。

 

 3. 給与所得の中間層:  1960 年代の開発計画で、1956年には31万人以下であったホワイトカラー( 給与所得) の中間層は1977年には63万人以上に増大した。この63万人のなかには30万人の公務員、21万人の教師、6 万人の技師や管理職が含まれていた。これに在学中の潜在的なホワイトカラー人口も加えれば180 万人に昇った。開発事業は慢性的な人材不足を引き起こし、政府は外国人技師の雇用者数を急増させるとともに、女性の公務員雇用、とくに教育と看護分野での促進を図った。外国人の技術者とくに米国人と西欧人のそれは1966年の一万人が1977年には6 万人に膨れ上がった。同時に高等教育をうける女性の数も5 千人から7 万4 千人になった。

 

 4. 労働者層: この層は1963年から1977年の間に5 倍ほどに膨れ上がったと見られた。この層の中心は凡そ88万人の近代的産業の労働者であった。3 万人以上の石油労働者、2 万人の電気・ガス・発電所の労働者、3 万人の漁業・林業労務者、5 万人の鉱山労務者、15万人の鉄道労務者そのほか、トラック運転手、60万人の工場労働者などである。その総計は127 万人と推計された。これに、地方から急速に移住してきていた都市貧民層を加えれば240 万人を越すと見られた。この都市貧民層は都市周辺部の貧民窟に住み着き、建設労務者、あるいは行商人や小使いとして日々の糧を得ていた。この層は後の革命後に被抑圧者( モスタザフィン) として知られることになる。

  農村部の賃金農業労務者、建設労務者、小規模な村落工場の労務者もこれに加えれば、労働者層は350 万人になった。レザー・シャーが新たに生み出した労働者階層は第二代シャー( 国王)モハンマド・レザー・シャーによって最大の階層となっていた。

21    復活党は異なった二つのグループによって企画されたものであった。その一つは米国の大学で学んだ若い政治学者たちであった。ハーヴァード大学のハンティントン教授の著作に啓発されて、彼らは発展途上国が政治的に安定するには政府による規律ある政党が必要であるとし、かかる政党が国家と社会を有機的に結び付け国家による社会動員が可能になると説いた。ハンティントンは王制は時代錯誤であるとのべ、また、政党は単に政府が大衆を管理する道具であってはならず、社会から国家への要求を伝える機関でもなければならないと述べていたが、これらの点は無視された。

     第二のグループはシーラーズのトゥーデ党からの転向者たちで、民衆党の党首・宮内相のアラムの   庇護の下にあった。彼らはレーニン主義的な組織のみが大衆を動員し伝統的な障害を克服して近代的   な社会を創ることができると主張した。

 

22    さらに婦人部を創り、また国営企業の労働者評議会を開催してメーデーを祝った。また、地方では凡そ500 万人の党員をその支部に登録させ、第24期国民議会の選挙で700 万人を投票に駆り立てた。

23 観光情報省、文化芸術省、高等教育科学省、国営ラジオ・テレビ局など。

24    夫は妻を明確な根拠無く離縁することはできず、また書状による妻の認可無くして次の妻を娶ることはできなかった。また、妻は離婚訴訟をおこすことができ、夫の許可が無くとも外で働くことが認められていた。

25    P.Avery edit, The Cambridge History of Iran, Vol.7, From Nadir Shah to The Islamic Repulic, Cambridge, Cambridge University Press, 1991, p 450

26    ibid.,p. 452

27    シャーはその経済建設・軍事増強をソ連を含む多様な国からの供給によって遂行しようとしたが、米国が圧倒的な供給国であることは言うまでもなかった。1976年8 月の協定により、両国の通商は1974-76年の100 億ドルから1976-1980年には400 億ドルに上り、また、兵器移転も1973-76年の約100 億ドルから150 億ドルとなった。